2009/11/04

ブリコラージュ

Note of Yamashin: "そして、ここからぼくの思弁の暴走が始まるのですが、レヴィ=ストロースの言う「神話的思考」をぼくは「身体的思考」と言い換えることができるんじゃないかと思うのです。
どうしてかというと、脳はさきほどいいましたように「情報の大量摂取・大量廃棄」をまったく苦にしない臓器です。苦にしないどころから、それこそが脳の本性と言ってもよいと思います。脳はいくらでもストックをふやすことができます。
でも、身体はそうはゆきません。身体的リソースは「有限」だからです。
細胞の数は決まっているし、臓器だって、骨だって、血管だって、神経だって…「手元にあるだけ」しかありません。
身体を使うというのは、畢竟するところ、有限数の「ありもの」をどう「使い回し」して、新しいパフォーマンスを達成するか、という「ブリコラージュ問題」です。
ぼくたちは長く武道をやってきたわけですから、身体機能を上げるということは何か外部的な要素を「付加する」のではなく、「すでに持っている身体要素」の「これまでそんな用途で使ったことのない使い方」を探り当てるということだということは身に染みてわかっているはずです。
「術」というのは端的に言えば、「そういうふうには使わない」関節を使い、「そういうふうには使わない」筋肉や腱を使うということですよね。
それは武道に限らず、舞踊や演劇でも変らないと思います。
だから、自分の身体的なパフォーマンスを高めることに強い興味を持続的に抱いていた人間は、多かれ少なかれ「ブリコルール」的になるように思うんです。
ものの考え方までが。
ぼくの場合は間違いなくそうでした。

— TFK2: ブリコラージュ的知性について"

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